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学校給食の歴史【2】:給食が再開され全国に広まる戦中~高度経済成長期

2019.09.17


戦中の幻給食

太平洋戦争へと突入して戦中の食糧難を機に、中止されていた学校給食が、実は戦中に限定的ですが復活していた時期があります。
昭和19年のこと、6大都市の小学校児童約200万人に対し、米や味噌の特別配給を通じて学校給食が実施されたのです。
都市部だけという限定的だったのは、この時代で疎開先になった田舎ほど農村地帯も多く、自給自足できる環境で、どうにか食べていける人も多く、都市部ほど深刻な食糧難に陥っていなかったからかもしれません。

 

戦後に敗戦を受けてリスタートした学校給食

終戦後、昭和21年、「学校給食実施の普及奨励について」という通達が文部・厚生・農林三省次官の連合で発せられ、学校給食の今後の方針が決まりました。
そして、昭和22年に全国の児童約300万人を対象に学校給食がついに開始あれます。
昭和24年には当時の食糧事情や戦中の栄養不良による栄養不良児の救済のため、ユニセフ(国際連合児童基金)から脱脂粉乳が贈られ、ユニセフ給食が開始されます。
さらに昭和25年、今度はアメリカから専用の給食物資運搬船によって小麦粉が寄贈され、8大都市の小学校児童に対して完全給食を行えるようになりました。
もっとも、翌年の昭和26年には講和条約が調印されたことにより、給食用物資の財源であったアメリカの占領地域救済政府資金であるガリオア資金が6月末日をもって打ち切られることが決定します。
これにより、学校給食が中止になる可能性が出てきたのです。
対して、学校給食を続けてほしいという願いを持つ人が多く、当時の国民たちが立ち上がり、全国的に運動が繰り広げられました。
昭和27年、日本学校給食会が脱脂粉乳の輸入業務をスタートさせるのと同時に、ユニセフ寄贈の脱脂粉乳の受入配分業務も実施されました。
ちなみに昭和27年代の代表的な献立はコッペパンにジャム、鯨肉の竜田揚げとせん切りキャベツに脱脂粉乳と、なかなか充実しています。

 

学校給食法の成立

昭和29年、学校給食法が成立しました。
これにより、法的に学校給食を実施する体制が整ったのです。
当時から学校給食は教育の一環として考えられるようになりました。
昭和30年代の給食はコッペパン、脱脂粉乳、汁物などが中心でした。
昭和33年には農林次官通達として「学校給食用牛乳供給事業実施要綱」が出されます。
文部省管理局長から「学校給食用牛乳取扱要領」が通知されたことで、牛乳の提供が開始され、脱脂粉乳は徐々に牛乳へと置き換わっていきます。

 

へき地への拡大

昭和35年、へき地における学校給食助成事業がスタートし、ガリオア資金の打ち切り後、資金的に難しくなっていたへき地で暮らす子どもたちにも栄養のある給食を届けるための取り組みが始まりました。
昭和36年には、ミルク給食施設設備費と夜間定時制高等学校夜食費における補助制度が作られました。
この制度によって、無償提供された岩手県へき地小学校からお礼として、すずらんの花が贈られたことから、すずらん給食との愛称が付きました。
昭和38年、脱脂粉乳に対して国庫補助(100g4円)が導入されることとなり、ミルク給食の全面実施に向けた動きが加速します。
翌年、共同調理場に勤務する学校栄養職員の人件費の2分の1も国が補助することが決まり、昭和41年、ついに全学国庫補助のもと、高度へき地学校の全児童生徒に対するパン・ミルクの無償給食がスタートします。

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